エセー自選集 2007

「突き抜ける悦び」は、ウェブ文士・市原千尋のエセー集です。

 

粒子でとらえる「生物」と「渋滞」

 「粒子力学」というのだろうか。
 生物と無生物の違いはいったいどこにあるのか?
 ランダムに拡散する粒子(原子あるいは分子)が結びついたもの、という観点から考えると不思議である。
 鉱物だって原子という粒子の集まりであり、貝殻だってそうだ。
 しかし一方は明らかに生物ではなく、一方は明らかに生物である。
 整然たる粒子のまとまり(あるいは散らばり)が無生物ならば、DNAによってつなぎ止められた粒子の「渋滞」が生物の本質?
 また、高速道路におけるクルマの渋滞や、航空機火災における脱出ルートの渋滞といった事象を自己駆動粒子の運動という観点から分析すると、これまたすごく不思議な法則がみえてくる。
 たまたま同時進行で読んでいた「生物」と「渋滞」の本だが、どちらも「粒子」という刺激的な切り口だった。

 かじったばかりの粒子力学的な考え方で自分の生活をみてみる。
 これまでの自分の問題解決の方法は、問題要素を単純なレベルにまで分割し、一点突破するやり方だったが、これを粒子力学的に見てみると、一点突破の段階ですでにものごとの流れのボトルネック(渋滞)を生みだしている。つまり要素の渋滞を爆弾で突破するような強引なやり方で、周囲にストレスを与えていた可能性も考えられる。ある意味でこれは「パレート最適」といえるかもしれないが、ここはボトルネックをつくらない「ナッシュ均衡」的な問題解決アプローチを視野にいれていくのもたいせつかもしれないと思った。

 さらに粒子力学的にものごとを考える上では、アインシュタインの「ブラウン理論」を勉強する必要がありそうだ。

2007/9/26

世界陸上「競歩」で、総立ち絶叫家族

 朝、テレビアニメの音で目覚めた。
 うちはふだんはテレビ禁止なのだが、日曜早朝は娘が僕のスキをついてアニメ番組を見ることがある。
「こらー、テレビ禁止」
 と言ったら、娘が、
「駅伝やってたよ」
「駅伝! チャンネルかえろ!」
 と、テレビ禁止豹変。
 駅伝ではなかった。競歩50kmの決勝だった。
 かねてから競歩には最大級のリスペクトと関心を持っていたので、すぐさま釘づけになった。
 フルマラソンを3時間切りに迫るペースで50kmを駆け抜ける、いや、歩き抜ける。
 1時間半。単独トップの中国に日本人を含む第二集団が追いつき、直後、先頭に出る日本人。
 まさに日本競歩界悲願の瞬間。鳥肌が立った。解説者の陸連の人も「鳥肌が立ちました」と言っていた。今、日本の中で、ほとんどの人は寝ているか、クルマを運転している。限りなく少ない人が、この瞬間に歴史を感じている。
 後はどうなってもいいから、このままついていってもらいたいですね。世界がどういうものか、日本人で経験した人はいないのだから、と、解説者が言った。なんというホットな競技だろうと痺れた。結果はどうなってもいいから、1分でも長く世界を感じろ、なんて、マラソンで言ったら抗議の電話が殺到だろう。まるで訂正するかのように、他の解説者が、明らかに飛ばしすぎ、冷静になってメダルを狙ってほしい、と、まっとうな言葉を継ぎ足した。くたばれ。
 草創期なのである。まさに日本が世界に出る草創期の競技、そんなホットさが競歩にはある。東大卒で会社勤務しながら競歩をやっているという選手も出ている。大学時代からはじめたそうだ。高校駅伝から転向した選手もいる。
 トップを歩くオーストラリア人選手のフォームはものすごく洗練されていて美しい。「歩くことは自分を見つめることだ」といつも言っているそうだ。歩く求道者だ。
 競歩はまた、陸上競技で唯一、フォーム違反がとられる競技だ。有力選手が目の前で次々とフォーム違反で失格していく。しかも本人にはその場では知らされない。知らないまま違反をかさねてしまう。疲れると人は自然と走るフォームに近づく。その自然に徹底して精神力でおさえつける。違反のプレッシャーが選手を蝕む。スリリングだ。
 筋肉が痙攣して脱落する選手、路上で嘔吐する選手も続出。解説者は言った。
「吐けばいいんです。吐いてすっきりしたら歩けます」
 なんとう苛酷な競技か。
「おーっと、アテネオリンピック8位・スペインのペレス、歩いてます・・あ、いえ、歩く競技ではありますが、止まりそうになって歩いてます」
「競歩の場合、止まっちゃうんですよね。もともと歩いてますから」
 競歩のテレビ中継も不慣れでおもしろい。
 やがて日本人トップの選手がラストで失速。しかも残り周回1周で、審判員が間違えてゴールのあるスタジアムに誘導。
 解説者、アナウンサー、そしてわが一家絶叫ーーーー!!!
「ヤマザキ選手、まだ気づいてません。今もどれば間にあいます。このままゴールすると失格です。しかし死力を尽くした選手に、もう1周、そんな残酷なことをいったい誰が言えるんでしょうかあーー!!」
 はあはあはあ・・。
 解説者が言っていた。
「競歩は見ているだけで疲れる競技です」
 もう今すぐ競歩マガジンを買いに行こう。しかし売っているのだろうか。

2007/9/1

いろいろ降ってくる日

 祝砲の流れ弾が降ってきて死んだ人が5人。イラクでのできごと。
 コンビニ前の路上に降ってきた96枚の壱万円札。東京台東区でのできごと。
 空から中味の入ったジュース缶が降ってきてクルマの屋根がへこんだ。小田原、うちでのできごと。
 娘の小学校の個人面談から帰ってくると、マンション一階の店舗のおじさんが、おいでおいでをして、
「おたくのクルマ、へっこんじゃってるよ」
 スライドドアの上にあたるルーフの端あたりが、ぺっこりくぼんでいる。上からジュースの缶が降ってきたそうだ。なっちゃんオレンジの空き缶が転がっている。高層階に住んでいる子どもが誤って落としてしまったのだろう。
 空き缶でこんななっちゃうんですねえと感心して言ったら、落ちてきたときは、ずごーんっと激突、ジュースの中味が入っていたという。確かにルーフのエッジの部分がこれほどへこんでしまうのは、かなりの衝撃だったのだろう。
 もしこれが荷物の積み下ろしなんかしているときだったら、ストライク人生アウトであった。それでもしかし、イラクの祝砲で死んだ人の理不尽さに比べれば、かなりまともな死に方ではある。
 いやはや、人生いろいろ、降ってくるものいろいろ。

2007/7/27

ゴミの代表

 尻から血が出た。
 前夜、静岡の出張の帰りに小田原に立ち寄ってくれた友人と飲んだ。彼は痔の手術をしたばかりで、その快気祝い。ところが、ひさしぶりに人と酒を飲んでうかれてしまった私は、場末のキャバレエで、女の前で、彼の尻を笑った。
「わたしの尻を笑ったな」と、医者から酒を止められていた彼は言った。しらふで。
 尻を笑って尻に泣く。ひさびさの深酒がよくなかったのか、翌日は激しい嘔吐と下痢。尻から出血し、一日を棒に振った。
 夜遅くに仕事から帰宅したワイフが前夜のことについて、おかしなことを言った。
 そのときワイフはちょうど寝ようとしていたところだったが、電話のベルに起こされた。
 受話器から「いま、かえりまーす」という機嫌のいい夫の声とともに、玄関ががちゃがちゃと開き、クツも脱がずに入ってきたのは夫そのひとだった。
 土足で部屋に入ってきた夫にも彼女は動じることなく、きっと買ったばかりのオレンジ色のランニングシューズを見せたかったのだろうと思い、「新しいシューズ、いいねえ!」と指さした。
「そしたら、急に怒りだしたのよ」
 怒りだした? 怒れるシチュエーションなのか? もちろん記憶にない。
「ぼくが人生について考えているときに、きみはクツの話か、って」
 ぷりぷり怒りながらも、やっとクツを玄関に脱ぎに行ったかと思ったら、おもむろに笑顔をあげた夫はこう言った。
「ぼくはゴミの代表です」
 思わず、ゴミ? と訊きなおすと、
「きみは、いままでそんなことも知らなかったのか?」
 と、また怒りだし・・。
 へええ、ぜんぜん覚えてないんだぁとワイフはにやにやして言った。
「で、けっきょくゴミの代表ってなんなの?」
「知らない。そんなの聞いたこともない」
「明るく宣言してたよ」
 ゴミの代表・・オレンジのシューズで土足であがってきた男が、いきなり自分はゴミの代表だと言って怒りだす。なんという詩的な光景であろう。私はひさびさに恩寵を感じ、さわやかな気持ちにさえ満たされたのだった。
 それにしても。
「ほんとに、そう言ったの?」
「うん」
 36歳をしめくくるにふさわしい美しい話に恵まれた。まだまだ捨てたものではない。

2007/4/3

破水(はすい)願望とウェットな男の一日

 日曜日。
 早朝からワイフと娘が東京に行ってしまったので、ひさびさに男の時間、ここはひとつ750cc(ナナハン)のモトチグレッタでどびゅーんと峠に行きたいところだが、手もとに肝心のモトチグレッタがない。あったとしても、雨である。
 とういことで、朝早くから毛鉤(けばり)をまきまきしているわけである。
 最近はウェットのハックルものが中心。というのも、過日、ついに覚悟を決めて高価な素材であるハックルを買った。釣り針にハックルを巻いていると、ワイフと娘がくれとせがむ。アクセサリーにするのだという。
 娘はランドセル、ワイフはケータイにソフトハックルの毛鉤をつける姿を想像したところ、なかなかハードボイルドな女たちであるな、と思った。
 日中は仕事をして、夕方からスウィムに行った。
 ひさびさにウェットスーツを着て泳いだら1500mで腕が動かなくなった。平泳ぎを入れて筋肉をほぐし、なんとか2000mまで泳いだが限界。
 ウェットスーツを脱ぐと体がずいぶん楽になって、あと1000m泳いだ。
 ウェットスーツを脱ぐ瞬間、体熱であたたまった温水(おそらくそうとう汗がまじってしょっぱいはずだ)が、じょわわーっとウェットスーツからこぼれ出る。どういうわけか、この、じょわわーな感じが、もうぞくぞくするぐらい、すごおく好きである。おしっこを思いっきり漏らした感じがするからかもしれないが、そうすると、私は潜在的におしっこ漏らしたい願望があるということになる。でも、正確に言うと、おしっこというより、破水、というイメージである。産みたい願望があるのかもしれない。
 アイヤーンマン・トライアスロン・ジャパンの本番は、いっきに3800mをウェットスーツを着たまま泳がねばならない。じょわわーが楽しみである。あと3ヶ月。じょわわーの前に、こんな調子では完泳できぬかもしれない。
 毛鉤など巻いている場合ではないのであった。しかし家にもどってから、また毛鉤まきまき。
 ウェットな一日。

07/3/11

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【著者紹介】

スローライフ
 スピードスタイル。

市原千尋画像

市原 千尋
Chihiro Ichihara

1970年香川県生れ。文学ゆかりの町、小田原に移住して3年目。趣味は読書。芥川賞をめざす。2008年はトレイルランニングをはじめた38歳。

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