しぶせん
高校のバドミントン部の同輩が小田原来訪。
旧友との会話は、十何年も脳の奥にしまいこまれたままの引き出しを、アルコールに浸しながら発掘していくような作用がある。次々とお互いの引き出しが開かれ、それらの相互作用でさらに奥の引き出しが開発されていく。
しかしどうしても、ひとつだけ思いだせないものが残った。先輩のアダナ。
本名は判明。容姿や行動なども鮮明に思いだしたのに、アダナだけ思いだせない。だいたいこういう意味のアダナだったというところまでは分かって、ほぼ外堀、内堀は埋まったのに、あと一歩のところで本丸に迫れない。
翌朝、ふたりで海を見ながら娘のつくった握り飯を食っていたら、
「そういえば、<キザ>っていうのがつかなかったっけ?」
「<キザ>なんとかか・・」
キザ・・もうほとんど本丸への最後の門を叩いている。微妙に違和感。あと一歩。ほんとあと一歩。
オレンジジュースを取りに立ち上がった瞬間、閃光が頭を射ぬいた。
「<シブイ>?!」
「<シブイせんぱい>! そうそう、シブイせんぱい、シブセンだ!」
眠っていたあいだにも、ふたりの頭の中で引き出しの開発はつづけられていたのだろう。目覚めたとき、ワイフに言われた。
「寝ながら声だして笑ってたよ」
2006/7/28
商法違反事件で被審人に
裁判所から手紙が来た。
「商法違反事件」の被審人に自分の名前が書いてあった。
3万円の罰金刑だそうである。
身に覚えなし。詐欺かと思ったが、そうでもない。思いあたった。
「事件」と書かれているが、役員重任の書類をだすのを忘れていただけである。昨年、税務処理のときに気づいて、司法書士に頼んで書類をだした。役人重任といっても、僕しかいない会社である。それでもその手続きだけで登記印紙やらで7万円もかかった。手続きが遅れたという内容の「事件」とのことだ。商法を甘く見るつもりはないけど、なかなか手厳しい。
一方的な通告だから、文句があったら1週間以内に1040円の切手を同封して異議申立書を提出せよ、ともある。(文句があったら、まず1040円払えというのも一方的だ)
そしたら裁判になるそうである。
手紙の最後に、この手紙の送付代80円を収入印紙で払えとある。
徹底的かつ一方的に、金、金、金。
なんかこの最後の一文が特にかちんときたので、夜桜の夜陰にまぎれて裁判所の正面玄関にうんこしてやろ。
2006/3/30
口をポカンと開けて、絵を描こう
2006年は絵を描くことにした。
仕事上でも最近はイラストや挿し絵などの需要が多く、これまではイラストレーターさんに頼んでいたが、時代が時代だし、だんだん無理のきく人が少なくなってきた。これからも仕事はどんどんシビアになるだろうし、雑用係なので最後は自分でやるしかないんだろうなと思いはじめていた。
もともと大学二年までは漫画家志望で高校の時から絵ばかり描いていたのだが、一度は挫折してやめた絵だし、もうやりたいとは思わなかったのだが、35歳から猛烈なスピードで動きはじめている人生退行が後押ししたかっこうになったのだろう。昨年末に親父が「わしゃあ絵をやる」と水彩画の通信講座をはじめたのを聞いて、じゃ、おれもやろ、と宣言し、
「ときどき成果を披瀝しあおう」
「おまえは何をやるんや?」
「ぼくは水墨画でしょうか」
水墨画と水彩画の対決元年である。
「異種格闘か。ケーワンみたいなもんやな」
水墨画といっても、僕がやろうと思っているのは、ちゃんとした水墨画じゃなくて、水墨画のスピリット。そもそも墨を使うかとか、どんなふうに書くかはまだ決めてないが、何も書かれないところ、つまり余白、行間を生かす光をとらえる目を養うのが大きな目的だ。カメラにも役立つだろうし、文章道にもよい脳内刺激になりそうな予感がしている。
さて2006年。
絵を描くといっても、まず何をやればいいのか?
図書館を漁っていたら、よき指南書に出会った。水墨画の本ではなく、正反対の線画(デッサン)中心の書であるが、スピリットが問題なのだ。
そして、口を「ポカン」と開けて眺めるのです。
どうですか? ま、自分がアホになったような感じもしますが、からだ全体から力が抜け、リラックスできるはずです。何十年か前の自由な気分が一瞬蘇っているかもしれません。頭を占めていた「知性」がどこかへ消えてしまったようでしょう。
さ、口を開けたまま、絵を描く準備に入ることにしまーす。
(永沢まこと『絵を描く、ちょっと人生を変えてみる』講談社)
口をポカンと開けるというのは、実際やってみると、たまらなくよい。過去に絵で挫折している者にとってみれば絵筆を持つだけでもすごく気構えてしまうのが、嘘のように脱力する。書いている途中でも、思い通りにいかず厭になって投げ出したくなったときも、口をポカンと開けて数秒待つと、ま、いっかという気になってつづけることができる。仕上がってみると、まあ、書き上げてよかったわな、にんげん、ステップバイステップじゃ、と、一応、達成感を得ている。
口をポカンと開けて待つ。
絵に限らず、いろいろなシチュエーションで使ってみているが、最高である。人が気合を入れているのをみたら、僕はこれをやって脱力しよう。
2006/1/6
葉巻スモーカーになる
シガー(葉巻)を買った。
小田原に一軒だけ藤木屋というシガーが置いてある店があり、かよぼんが金を払ってくれた。
なんとなく煙草を吸わなくなって20日ほどたつが、特に健康になった感触もないし、禁煙した人たちがよく言うように、ご飯がおいしくなったとか、階段で息が切れなくなったとか、胃の調子がよくなったとか、そんな実感も特にない。
ただ、一日が少し長くなって得した気はする。単純に考えて一本で5分、一箱20本分で一日あたり100分が浮いたわけだ。また、煙草を家に置き忘れてきてしまって慟哭するとか、行くとこ行くとこ禁煙ゾーンばかりでカッカするとか、そんなこともなくなって、人生のお気楽度が増した。喫煙者とは、じつに受難者であると改めて実感。
煙草をやめたいのであれば顔面骨折で簡単に実現できることが立証されたわけだが、煙草は大好きだし、けっしてやめたいわけではない。ニコチンに依存することなく、吸いたいときだけ吸えたら素晴らしく、そのようなスタイルをエヴァンフェリスタ喫煙法として昨年、堂々提唱したわけだが、これはこれでなかなか難しい。吸わなくなると、いつも持ち歩くことがなくなるので、吸いたいときに吸えない。現代のような状況だと、吸いたい気持ちより面倒くささの方が上回るシチュエーションも多々ある。しかし面倒くささを押しても吸いたいときがある。オートバイで波濤さかまく断崖に降り立ったときとか、銃で打たれて冷たく濡れたアスファルトの上に横たわったときとか、こういうときは何としても吸うべきである。
吸いたいときだけ吸うようなスタイルだと、20本入りの煙草はよくない。1本か2本あればいいので、吸いきれない。吸いきろうと無理して吸っていると、知らないうちにニコチン依存になる。たまに吸いたいときの極上の一本、となると、シガー(葉巻)がぴったり?
