人肉を喰らう
じつに清々とした気分の好日。
何度も鏡の前に行っては大口を開けて、口内の左奥にぽっかりできた穴を見てにんまりし、親知らずの歯を手にのせてはにんまりする。この野郎、世話を焼かせやがって、と指先で歯をどついたり、うぷぷ、もう恐いもんなしだぜと急に高笑いしたりと、落ち着かない一日であった。
なんというか、この記念碑的な歓びを体に刻みつけたいという強い欲求がふつふつと湧き出てきて止まらぬ。
民族戦士が、打ち倒した敵の肉を喰らってそのパワーを体内に取り込むという話があるが、こやつを眺めていると、ほんとに憎くて憎くて愛憎紙一重というんでしょうか、憎いんだか、かわいいんだか分からなくなって、正直どんな気持ちかというと、ズバリ喰ってやりたいという感じ。
歯にはべろんと赤い肉がついている。見ているうちに、ほんとに喰ってやろうかという気がしてきて、いや今喰わないと一生後悔するんじゃないかといった気概に発展し、しばらくは肉がなまなましくてなかなか勇気がわいてこなかったのが、逡巡しているうちに乾燥して、だんだん干し肉みたいになってきた。
気合を入れてカッターで肉をこそげ落とし、薄い食塩水にひたして冷蔵庫に保管。夜になって妻子がそろったときには、みごとな「お肉」の色、それもちょっと霜降りという雰囲気になっていた。
「諸君らは、これからわが人肉を喰らい、無敵のスーパー戦士・スーパー革命家となるのです!」
と、元酋長の営業部長みたいに宣言すると、娘はわーっと拍手。しかし喜んでくれると思っていたワイフがどうも乗り気ではない。ちょうど彼女は遅い夕食でうどんを食っていたところだったのだが、小皿に少し残っていた生姜を見て、「くさみけしに」などと弱気なことを言う。
一生に一回あるかないかなんだから、やっぱりここはストレートでいきたいし、生姜は却下してフライパンにガスコンロの火をかけた。ここでちょいとばかりオリーブオイルをからめようか迷ったが、やはり素材の香りを重視して油なしで、じゅっと焼いた。
「うほほっ。ええ香りやんけ」
人肉を焼くと嫌な匂いがすると古来の文献にも出ているが、そんなことはなくって、実際にはふつうのお肉の匂いである。
小さくちぢこまってしまったのをのばして、包丁で3つに切った。ぐしっと弾力があって、ちょっと食欲をそそられる。
いちにのさん、で食べようと、三人で三つの肉片を囲み、いち、にいの、さん!
「おっ、いけるやん」
「牛タンみたい」
娘と俺が言うそばで、ひとりワイフがしゃがみこんだ。
「ご、ごめん。触っただけで、気持ち悪くなった」
顔が真っ青になっていた。うどんもほとんど手をつけていない。なんとなくではあるが、ちょっと傷つきましたね。今、食べないと生涯、夫婦としてしこりが残りますよ後悔しますよなどと脅しをかけるも、ほんとに気分が悪くなってしまったらしく、んじゃ、と言って娘が口に入れてしまった。
血のつながった肉親とは、よく言ったものである。いや、この場合は、親肉か。
2005/05/27
天才女医のオヤシラズ
今日、歯医者に行ってきた。
15年にわたる4本の親知らずとの格闘の歳月。といっても、ほとんどは逃亡につぐ逃亡の歴史であった。いよいよ最後の一本となったアパッチにケリをつけるべく、もう逃げ隠れはしないと決めた。
思えば上の二本はゲリラ的にすんなり抜かれたのだが、下の二本は口腔外科でしか処置できないと言われ、手術にビビって逃げまくってきた。友人でやはり下側の2本を抜くのに全身麻酔をやったやつもいて、その話にまたビビる。
半年前、近所の歯科医が口腔外科の資格ももっていたので、覚悟を決めて進軍。しかし40分におよぶ手術で鮮血が白衣に吹き飛び、歯は4つのブロックに粉砕され、それでも抜けずに先発の医師はサジを投げ院長にバトンタッチ。最初からそうしてろよなあ、と大口を開けたまま思ったものだ。
この医師とは以来、一度も会っていない。残すところ1本で、ビビりが入ってしまい、またもや逃亡生活をはじめたのだ。
ところが、ひょんなことで天才名歯科医と出会った。
東北大学大学院卒業でなんだか難しい論文、資格をもっていて、設備は最新鋭。神経を抜くときなんか、ソナーみたいなセンサーが、ぴこーんぴこーんとかいって神経に流れるわずかな電流をもとらえたり。しかも、ここの歯科医院は医師、助手もすべてきゃぴきゃぴのギャルなのである。患者が誰もいなくなるや、処置室から聞こえてくる、きゃぴきゃぴの歓声、月九のドラマの話やら、女医、助手らが集まって、きゃぴきゃぴの大騒ぎ。まるで高校の文化祭前夜の様相。聞いていると、あまりのギャップにけっこう脱力。
この最後の決戦の日、担当は20代の院長先生。かわいい声と目につい油断していると、
「あちゃー、こりゃー前の歯も神経抜かなきゃだめっすねー」
そして麻酔をずぼっとやって、ぱきぱきぽりぽりと数分、
「一回、口ゆすいでもらえますー?」
しばらくたって、もどってくるや、神経抜きの本格作業に入り10分。
「もう少しですからねー」
「あ、あのー親知らずの方はー?」
「ああ、喋んないで。親知らずね、見る?」

血まみれのガーゼにくるまれた物体・・。思わず、
「あややっ?」
「ごめんごめん、急いでたから、抜くって言わなかったよね」
「神経抜くって言ってまひたが」
「そっか〜。でも気づかなかったんだったら、言わなくてよかったよね。あははは」
そう、てっきりこのあとに親知らずを抜くのかと思ったら、神経抜く前に、ちょいと親知らず抜いてみましたーみたいな感じで、俺の15年に渡る親知らずとの格闘の歴史は、気がつかないうちにあっけなく終わってしまったのであった。
げに、世の中には異形の天才とはいるものである。
2005/5/26
路傍のポピーが終末観
なあモナミ。最近、ポピーが路傍に生えているのが目につかないか?
俺はこのポピーって花が嫌いだ。破滅を兆す人工的な感じが。一時の享楽、そして廃頽(はいたい)。それらをあざ笑う傲岸なポピー。
千葉といえば菜の花にポピーだって? それは南房の話だ。俺は20年近くここに住んでいるが、路傍にポピーなんて気づいたことがなかった。それが今年はいたるところで目につく。気になりだすと、あっちにポピー、ここにもポピーってな感じで、ほんとうにそこかしこに咲いている。単にチャリでの移動が多くなって目がいくようになっただけなんだろうか。確かにオートバイクなんかで走っていると、路傍にリュウゼツランが咲いていたって気づきやしないにちがいない。
ここまでポピーが勢力を伸ばしているには何か人工的な理由があるはずだと俺は踏んでいる。10年ぐらい前にアパルトマンの前栽にミントの切れ端を5本ぐらい植えたのだが、これが毎年勢力を伸ばして、今では10メートルぐらいにわたってミントの園になっている。しかし10年かかってその程度だ。サイクリングがてら気をつけて見ていると、20キロ先の川口までポピーの繁殖を確認した。
もしかしたらポピーを世界に跋扈させようとする世紀末教団みたいな連中が、四半世紀におよぶ草の根運動であちこちにポピーを植えまくり、その芽がここにきていっきょに開花、ふふぁふぁふぁふぁ・・わがきょうだいたちよ、ついにわれわれの思いと努力が報われるときがきた・・なんてことを想像してしまうのだが、それならポピーを植えまくって何をしようとしているのか分からないだけに不気味である。
家にもどった俺はワイフと娘を集めて、あのさー、ポピーが咲きまくってんだけどさー、と状況を説明し、自分の考えをこう述べた。
「なんか、ヤバくね?」
戦争だか災害か分からないが、ただ、誰もいなくなった廃虚でポピーが咲き乱れる光景が頭から離れない。この日本で静かに侵攻しつつあるもの、それが何なのか見据える勇気がお前にはあるかい、あしたかひこや、と森光子の声がリフレイン。西の国で何か不吉なことが起こっておりまする。眠れぬ夜ごと、俺の気持ちは強くなっていった。
鴨居を見上げる。数日前に短冊に書きつけた「38歳、西へ」を実現するためにも、あれこれ頭で考えるより、まずマスルを伸縮。すかさず腕立て伏せ。して14回目にして早くもひらめいた。
前線基地。
いきなり本拠地遷都を考えるから、子どもの学校がどうとか日当り悪いのとか道が狭くてクルマが多いとかマーケットが遠いとか裏山の崩落が恐いとか実家の親を見捨てるのですかとか仕事はどうするのですかと、こんな調子で無限の瑣末に翻弄されてしまうのだ。ここはひとつ気楽にですね、ちょいと小粋(こいき)に西部前線基地を設営しまして、大本営と前線基地を往還しつつ西進運動をじりじりと進める。これはいいね、いいやね、とマスル爆発の腕立て大車輪。
・・と、また夜明け近くになってしまって腹減った。うどんでも食おうじゃないか、モナミ。
2005/5/19
完璧な虹。しかも二重リング!
午後6時をまわって、小学校内にある学童に娘を迎えに行こうと外に出るや、激しいにわか雨が。西の空は気味が悪いほどオレンジ色に染まって夕焼け。なんなんだよこれはとぼやきつつ、ずぶ濡れでマラソンし、1.5km先の小学校に着いて仰天。
視界の開けたグラウンドの上には、にわか雨の弾幕が巨大なスクリーンとなって夕日を映しだし、荘厳なまでに完璧な虹の架け橋。しかもアーチの外側には、ひとまわり大きな七色の傘まで大輪に咲いている。思わず学童施設に飛びこみ、子どもたちに「虹だ」と呼びかけた。
虹を見たことがないと何度も言っていた娘の目にはどんなふうに映ったのだろう。僕にしても、これほどの虹ははじめてだった。携帯電話のカメラをはじめて使った。1枚じゃ入り切らず、3枚に分けて撮った。
そうしているうちに雨もあがり、まもなくアーチは空に溶け入るように消えた。わずか5分ほどの壮麗なショーに軽い興奮をおぼえつつ、できたばかりの水たまりをよけながらグラウンドを横切り校門を出た。
「ねえ、晩ごはんは?」娘が言った。
「カレーなんてど?」
スーパーマーケットで買い物をして家に帰った。カレーをつくっているあいだ、かたわらで娘は紙と色鉛筆で絵を描いていた。カレーといっしょにできあがったのは、紙からはみだしそうな大きな虹だった。

2005/5/18
鴨居にならぶ短冊の数列が、人生のはかなさを。
夜明けだ。
昨日、天啓のように顕現したインナーマッスルの覚醒のために、けっきょく一睡もできず。
人生折り返しをまわってから、準備すること1年余。
インナーマッスルに導かれ、ついに動きだした。って、何をやったのかというと、チラシの裏紙をはさみで切り、一枚の短冊にしたものに筆書きをし、それをば鴨居にセロファンテープで貼った。
たったこれだけ?
そうなのである。しかしたったこれだけの行動に一年余かかった。
鴨居には、少し黄ばんだ古い短冊がすでに何枚か貼られている。部屋の四辺をわが一生涯と見立て、北西の隅を出生と終生とし、人生70年を四辺で割り、ひとつの鴨居につき約17年。すでに人生残すところ二本の鴨居のみ。ここに貼りつけられた短冊には、数列が5つ書かれている。大きな黒い数字は自分の歳。赤い数字ふたつは妻と娘の年齢。黒の小さな数字は父親。そして西暦。
部屋をぐるりと見まわすだけで、これらの数列が冷酷なまでに人生のはかなさを突きつけてくる。
しかし男は勇気をもって、この数列だけの短冊に、何かしらの言葉を書きつけていかねばならない。その自信がまだなければ、すでに経過した分の二辺の鴨居にぶらさがった短冊に、これまでやってきたことを書いていくといい。「6歳小学校入学」とか「26歳、第1回目の結婚」とか、とりあえず思いつくことを書いていくうちに、次第にアルバムをとりだし、指を折って、より詳細を書きとめようとしていくだろう。ひといきつくころには、二辺の鴨居には男のこれまでの半生があっけないほどシンプルに描きだされているはずだ。
うひゃーんっ。
男は眼前にさらされたおのれの半生の不甲斐なさに悄然(しょうぜん)となる。そしてまだ手つかずの残り二辺を絶望的に見やるのだ。書くべきことはあるはずなのに、それをどこに入れていいのか考えているうちに、どわっと疲れて寝てしまう。仕事、しがらみ、子育て、介護・・、来たるべきものが見えすぎて、やるべきことを短冊に書き入れる位置を見いだすことができずに悶々、そのうち忙しさにかまけて思考停止。こうして一年余がたった。ってわけである。
鏡を見ると鼻毛が伸びていた。曙光、黎明、徹夜明けの朝。インナーマッスルの覚醒によって男はかろやかに軽率な一歩を踏みだした。ってわけである。
短冊に書いたのは、こうだ・・。

38 36 10 68 2008
旅芸人(ボヘミアン)人生スタート。
「38」は3年後の自分の年齢。36はワイフ、10は娘、68はワイフの父(親族で最年長)、そして西暦2008年。これら数列が並んでいるだけでも打ちひしがれそうな緊迫感なのに、これに文字列が加わるとさらに「待ったなし」の感じが迫ってきて、ついつい取り乱してしまうのである。
こ、この俺が38歳?(うわー、しっかり中年やーん)、ワイフ36歳?(かつて花手折る指もか細き乙女が・・お、おばー)、娘の10歳はいいとして、68歳の義父に至っては大人用おむつの映像が総天然色で嘖(さいな)んでくる。これらの現実味と、「旅芸人人生」という文字列の洒脱な滑稽味が無気味なコントラストを醸成している。しかし他人が見れば、ただのもの笑い。旅芸人(ボヘミアン)ですって、ぷっ、うくくく。
しかしあくまで俺は真剣なのである。
つまるところこれは、中学2年の14歳以来、20年にわたって定住し住み慣れ、何の不満もなくおそらくはこのままだらだらと無為に一生涯住みつづけるであろうはずだったこの安穏の地を、辞去し撤収する毅然たる決意なのであるから。
小中学校を6回転校した俺はボヘミアンだった。四国、九州を含めて最長でも一箇所に二年。そのたびに新天地の「2万5千分の1」国土地理院発行地図に見入り、釣り具を携えペダルをこいだ。深更に出立し夜通し走る現在のバトルツアーのスタイルも、このとき確立されつつあった。そして今、長らく中断されていた旅芸人行脚(ボヘミアンライフ)の再起。そして慣性ライフみごと廃棄。
むふぁははは。
退化退行が俄然、加速度を増してきたようですな。あいや、退化退行に加速度はおかしい。減速度アップです。
城塞都市の尖塔が揺動し、鐘が鳴り響いた。今は深夜深更。もちろん、鐘が鳴ったのは俺の頭の中である。
西へ。
右脳コンクラーベが霊性の烽火(のろし)を上げた。それは俺という人体組織に与えられた託宣であり、密命である。
西へ。と短冊に書き足した。
地怨うずまく西国を鎮護する世直し行脚。市井にまみれ、霊性を高く掲げよ。
「自然にまみれ?」
とつぜん、素っ頓狂な声をあげたのは、足もとでラブラドール犬のようにまどろんでいたワイフ。
「ちゃうて。市井(し・せ・い)」
「びっくりした。まさか、おとーさんが、そんなスローライフ推進フォーラムみたいなこと言うんだあ思って」
なるほどワイフの言うことはもっともで、スローライフという流行のスタイルは、かっちょわるい言い方をすれば「退行ライフ」である。大きく違うのは、スローライフが自然にまみれるのに対して、わが退行ライフは市井に隠する。うん、住むなら城郭、天守閣のそびえる町がいいな。小江戸、小京都と冠せらせる地方タウン。
俺はひとつ放屁してからデスクの下にもぐりこみ、死蔵書庫から埃のかむった地図本を引っぱりだした。買ったままうっちゃっておいた『旅に出たくなる地図〜日本〜』という地図本。正直、これを手にしたばかりのときは、即座に捨てようかと思った。開いて、あぎゃん。こ、こいつぁ小中学校で社会の時間、飽きるほどねぶりまわして眺めた例の地図帳とまったく同一物ではないか。道路と鉄道路線、地名、地勢地形をすべて包括したためにきわめて曖昧模糊(あいまいもこ)、およそ実用物としては役に立たぬ小中学生のお慰みカラー本。そりゃ帝国書院だもんね。
しかし不思議だった。たった今、「西へ」とだけ思ってこの地図を見ていると、じつに豊かにイメージが立ち上がってくるではないか。試しに道路地図帳を開いてみるが、道路や観光情報ばかり目立ちすぎて、鉄道や県境、川、池などといった生活者の視点がまったく欠けていてイメージがわかない。
なるほど、この『旅に出たくなる地図』は、カーナビという「情報機器」にすっかり骨抜きにされた大人たちに、「なつかしー、けどこれ使えねえよなあ」と思わせながら、同時に、長らく忘れていた少年の冒険心を覚醒せしめんとする恐るべき心理本だったのだ。情報(インフォメーション)ではなく、情動(エモーション)の地図本。天晴、帝国書院!
にわかにボヘミアン魂を募らせ、上総国松戸から西に指を走らせた。
鎌倉。小田原。湯河原(ここも小京都らしい)。早くも勿体ない気がしてきて、指を止めた俺は、ええやん、ええやんと、喚(おめ)きながら地図本を閉じ、深く息を吸った。
うしゃ。とりあえず、うどん食お。
2005/5/17
世をはかなむ電車運転士
連日、尼崎の電車脱線激突事故の原因解明の報道。
速度が107キロだったのが、123キロだったとか、手前の伊丹駅でのオーバーランが40メートルじゃなくて60メートルだったとか、社員がやんやとボーリングやったとか、議員もいっしょに飲んだくれていたとか、いろいろなことが報じられているが、僕が今いちばん懸念しているのは、レールの上を走ると思われていた電車が空を飛んだり、クルマが停ると思われていた駐車場に電車が入ったりして、僕のささやかな現実認識が脆くも瓦解したことである。
「レールの上を走るキマリきった人生なんて、おりゃあいやや!」と嘯(うそぶ)いていた若衆だって気づいたはずだ。レールの上の人生はキマリきっとるどころか、ちょいとスピードだしてカーブでくんとブレーキをかけるだけで片輪走行、いとも簡単に世間の常識を瓦解せしめ、さらにはレールの上でなく空を飛び、クルマが停るはずの駐車場に入るに至って、世間はレールの上の人生の酷薄さを知ったのである。
おそるべきは、これらすべてが運転士の一存にかかっている点で、靴を脱いだ左足で右足のふくらはぎを掻き掻きしながらでも、ちょいとスピードをあげてカーブでくんとブレーキをかける、たったこれだけで「レール上の逆説」をもって世間を驚愕させることができることが判明したのである。
電車運転士の中に、世間をはかなんでいる者が皆無であればいいのだが、そんなことは確率的にありえないことで、世間をはかなみ日々自死を考えている電車運転士、さらには世間に怨嗟、怨恨を抱く自暴自棄な電車運転士らがいないと考える方が不自然だ。
そう思うと今日日(きょうび)、電車に乗ることぐらいスリリングな賭けはなく、入線してくる電車運転士の顔をいちいち確認するようになったが、ちょっと思いつめたような青い顔の若者だったりすると、小さく胸で手を振ってみて反応を引きだそうとこころみたり、とにかく、電車に乗ってどこかに行くと、ぐったり疲れる。そんなことはないかい、モナミ?
2005/5/9
小さな親切のヒーロー
なあ、モナミ(朋輩)。ふと見まわしてみると、このニッポンから小さな親切が消えつつあるような気はしないか?
ホームに落ちた人を助けようとして自分まで電車に轢かれてしまったとか、一生かけて貯めた数十億円もの金をぽんと寄付したり、スケールの大きい親切はまだこの日本に健在であるにもかかわらず、クルマが激しく行き交う道路ばたの縁石にちょこんとすわっている老女などには、だれも見向きもしないで通り過ぎていく。
そう言っている俺もまた黙って通り過ぎてしまった。自転車だったにもかかわらず、だ。
「こら婆、だいじょうぶか? ちゃんと生きてっか?」
せめて通りすがりにそのぐらいのことを言ってもよかったのではないか? 激しく自己糾弾しながら、それでも何もせずそのまま走りつづけた。リウマチと骨粗鬆の合併症に難儀しているとか、道路を渡れなくて途方にくれているとか、あるいはただパチンコで大敗を喫しただけなのかもしれないが、いずれにせよ、声をかけるべきだったと慚愧の念。それでも俺は素通りした。
なぜ小さな親切が消えつつあるのか? 昔は俺も数多くいた小さな親切ユーザーのひとりだったはずだ。問題を重視した俺(正確には俺の左脳)は、全身の各器官を統括する枢機卿たちを召集し、15分後には「小さな親切」調査委員が発足、この件に関する調査を開始した。以下は、小さな親切ができなかった要因に関する報告書からの引用である。
1、筑波サーキット8時間耐久自転車レースまで残すところ1週間。調整を含めた自転車トレーニング中で80kmの行程をアベレージ30km/h以上で走ろうとしていた。ちょうど72km地点で残り8km。メーターは平均速度31.2を指していた。交通量の多い公道だったので、信号待ちなどのロスタイムを入れると、30km/h以上を達成するためには微妙なラインで、少しでも速度を稼いでおきたかった。(運動中枢の枢機卿の証言より)
2、何か面倒なことに巻き込まれることを怖れた。例えば、その婆が石綿妖怪で、声をかけたために新月の晩ごとにつきまとわれるかもしれないとか、多重債務の一人息子が女子高生と偽装結婚をしてさらに借金をかさねようとしていると相談されるとか、こんな御時世だ、いろんなリスクが頭をよぎってしまった。(情報処理担当課長の証言より)
3、きっとだいじょうぶだろう、と思った。というより、思おうとした。(匿名の証言)
問題はやっぱ3だろう。空気みたいなもので罪がないように見えるが、今の日本、ひき逃げするやつも、ホームから人を突き落とすやつも、みんなこれだ。空気みたいで罪がないように見えるだけに凶暴なんだ。
*
なあ、モナミ。家に着くころには俺はほんとにこう思うようになったよ。
「きっとだいじょうぶだろうと思った」の蔓延と本気で戦うためには、「小さな親切」の一大ブームを巻き起こすしかないんじゃないかとね。災害、戦争の脅威が日に日に高まるこの日本が生き残るための草の根運動だ。
31.5キロ・・婆を見捨てた犠牲の上に80kmの行程を走った平均速度だ。婆の面倒を見ていたら30キロを下回っただろう。でもそれがどうしたっていうんだ?
俺は、シリウスのごとき炎を胸にともしながらオートバイに乗りかえ、プールに向かった。
閉館時刻まで65分。2kmを泳いでストレチをするには、かなりぎりぎりの時間だ。プール前の歩道に750ccのオートバイを停め(ほんとは駐輪場に停めなければならないんだけど)、フルフェイスのヘルメットもはずさずに、すわ、駆け込まんとしたとき、道路のはさんだ向こうの歩道から小さな男の子が「ママン!」と絶叫しつつ、たった今しっぽをチョン切られた猫みたいに駆けだしてきた。申し合わせたように、ちょうどそこにランサーエボリューションがぶわんと通りかかり、コマ送りのようになった視界の中で南無三! 男の子は人形みたいに路面にたたきつけられた。
が、パニック状態のまますぐに起き上がり、また走りだそうとした。俺は待て待てと怒号しながら、二次災害を防がんと車道に飛びだし、両車線のクルマを断固制止。って、モナミ・・俺が轢かれるところだったよ。
周辺では自転車の女が2人、ぼう然とこちらを見ている。男の子を無事救出し、歩道にすわらせた。歯医者と美容院からも白衣の女たちがでてきた。あいかわらず「ママン、ママン」と泣き叫ぶ男の子。スネにわずかな出血と腫れが見える程度。コンマ数秒のマジックでクルマの側面にぶつかったのが幸いだった。
男の子をとりおさえたまま、女たちを見まわすが、みなお互いを顔を見合わせるだけ。
「おかーちゃん、おらんのん? おらんのやったら、そのへんの店、探して」
先の方で停車したランエボのドライバーもやって来て、青ざめた顔で子どもを見る。善良そうな若い男だ。とりあえず危機的状況は脱した。と、ここでいったい俺が何を考えたと思う? 早くプールに行かねば、って・・ほんとです。ノルマ制の全廃を厳しく再確認したばかりだというのに、「小さな親切」運動を決め込んだばかりだというのに、俺はまたしてもそんなセコいことを考えてしまったのだ。
泣いている男の子を見下ろした。ヘルメットの視界ごしに目が合い、男の子は、すっと両腕を伸ばした。だっこすると、男の子は頭をぴとっと俺の肩につけ、数回ゆすっているうちに泣きやんだ。ドライバーが心配そうに男の子の顔をのぞきこむ。そりゃそうだろう。子どもをだっこしている俺は、ファイヤーパターンのライダースジャケットに、鋲打ちのグローブ、そしてミラーシールドの黒フルフェイスヘルメット姿。子を持つ親なら、3歳ぐらいの男の子の人見知りのすごさは想像できるだろう。俺自身も驚いた。が、素地がないわけではない。ワイフにはからかわれてばっかりだが、小学2年にもなった娘に、毎日20分はだっこをやらされている。不安になった子どもが落ちつく「慣れ」みたいなものはあったかもしれない。
それにしても、親がまだ発見されない。だっこをしていると、なんだか友愛の心が体中に染みわたってきて、まあ今日はプールもいいや、という感じになってきた。そう、これでいいのだ。
パニック状態で、やたら謝りつづける女が道の反対側から現れたと思ったら、男の子が急に「ママン」と言って泣きだした。母親にバトンタッチした。ドライバーが何を言っても、「私が悪いんです。私がクルマの中に置き去りにしたから」とくり返す。とりまきの女の一人が、「病院に行った方がいいですよ」と言っても、「いいんです。私が悪いんですから」と、完全に謝罪パニック。
「いやさ、ええだすじゃなくッて、病院だきゃ行っときなせえよ」
と釘を刺し、俺は颯爽と道を横切ってプール施設に入った。
もう時計は気にせず適当に泳いで、ストレチをやったら、じつに爽快な気分のまま時間内で2km泳いでしまった。残り1分あったので、ひさびさの50mタイムアタックをやったら、自己新記録の37秒がでた。
意気揚々と帰ろうとすると、フロントにプールのスタッフが一列に並んでいる。マニジャまでいて、何ごとかと思っていると、笑顔で口々に礼を言われた。さっき俺がプールに消えたあと、事故処理を終えた関係者が礼を言いに来たとのことだった。
「そうですか。ともあれ、子どもはだいじょうぶだったんだね」
「はい」
小さな親切ライダーは近隣迷惑な爆音とともに走り去った。胸にシリウスの炎をともしてね。
2005/04/29
キム・スヒョンくん
このところ、娘との会話の多くを占めるのが、キム・スヒョンくんについてである。キム・スヒョンくんは2年生になって転入してきた札つきのワンパク少年で、うちの隣の隣のマンションに住んでいる。ついでに言っておくと、スヒョンくんのお母さんは韓国の人らしく、おまけにけっこう美人である。
さて過日、うれしそうに娘が言うには、キム・スヒョンくんにほっぺたにキスされたらしい。PTAクラス会でも、スヒョンくんはクラスで唯一のスカートめくりしゃんだという報告があった。今どきの日本人の低学年の男の子は、おとなびているというのかクールというのか、そういう話は聞いたことがなかったから、スヒョン天晴(あっぱれ)。
そういえば僕が小学2年のときの記憶といえば、空き地に落ちていた大量のエロ本を拾得し、クラスで2番目に好きだった同じ団地の女の子の家の玄関に積み上げてピンポンダッシュしたことと、1番目に好きだったムラタエリコという女の子のほっぺたにチュウしたら、さめざめと泣かれてしまい、その夜、むこうの父親は出てくるわ、先生は出てくるわの大騒動大目玉。もう一生、女にキスなんかしないと誓ったものだった。
やっぱ思った。スヒョン天晴(あっぱれ)。
さて今朝がたのことである。カンカンと鳴りはじめた踏み切りの向こうをスヒョンくんがひとりで歩いていた。娘が「すひょんくーん」と声をあげると、にっこり笑って降りはじめた遮断機をくぐってこちらに走ってきた。俺はこれぞ青春、といたく感動したものだ。
邪魔者去るべしと俺がそろそろと歩速をはやめて離れはじめると、娘が追いかけてきて、そのあとをスヒョンが追いかける。娘を通り越して彼は俺の前に立つと、恋の愁いに曇った眉目を開き、こう懇願するのだった。
「まどかのおとうさん。日曜日、まどかと遊んでもいい?」
とっさのことで腰の引けた俺は、
「いやぁ、まどかは日曜日は物見遊山とかトレーニングがあるからなぁ」
と煮え切らぬ返答をひりだしてしまい、あいや、後悔。俺たぁなんたる度量の狭い父親だ、と思いつつ、落ち込み顔のスヒョンくんを見て、ちょっといい気味ではあるなとほくそ笑んでいたりする。あいや、なんたる度量の狭い男だ俺ってやつは、と思いつつ、やっぱり小気味よくて、うふふ、と笑ったりしていた。いやはや。
2008/04/25
家庭訪問で女先生がきた
家庭訪問で女先生がきた
今日は娘の小学校の担任先生の家庭訪問があった。
おもなやりとりは、
女先生「気になること、心配なことはありますか?」
僕が気になること、心配なことを言う。
女先生「それは成長しているということの証拠です」
だいたいこれのくり返しだった。
僕としては何かひとつでもいいから、「それは退化しているということの証拠です」とか「それはかなり致命的です」というような発言はないものかと期待していたのだが、昔のやりたい放題なぐりたい放題だった先生たちの時代と違って、何かと親とか世間がうるさいものだから、今の先生はすっかり営業マンみたいになっているのかなあと思ったりもした。
10分弱の滞在でお茶を出す間もなく、女先生は太った体を揺さぶりながら、のっしのっし帰っていった。先生の靴の裏に、薄墨色に褪せた桜の花びらがへばりついていたのを見つけたら、なんとなく気の毒な気になって娘といっしょに駅まで送った。
2005/04/18
カラスによる個人情報流出事件
それはさわやかな朝。の、はずだった。ほんとは。
早春の空気がやわらかな木曜日の午前7時30分。木曜日は生ゴミの日。前夜のうちにゴミを分別し、玄関先に置いていた。定刻通りにこやり(娘の通称である)を小学校に送りがてら、ゴミを集積所に持っていく。はずだった。ほんとは。
主夫の務めはイスラームの戒律のごとく厳格なものだ。決まった曜日の決まった時間に、たがうことなく決まった務めを果たす。生ゴミを出し忘れるようなことがあれば、2日間は悪臭たちこめる部屋で悶々と後悔の念に嘖まれ、資源ゴミの場合など次の収集日まで1週間も自責と煩悶の海を泳ぐことになる。そして次のチャンスも逃したら・・死屍累々と増えつづける資源ゴミ・・考えただけで絶望的な気分になる。それを俺は・・ことあろうことに俺は、寝坊してしまったのだわ。オマガッ!
はね起きるや玄関先に飛びだすと、何もなかった。ワイフがちゃんと出しておいてくれたのだ。俺は安堵して、窓を開け、早春の空気を味わいながらカフェーでもすすることにした。ふと、煙草がないことに気づいた。これでは早春の空気の無駄遣い。ゴミが消え質量が軽くなった部屋の中で吸う煙草は格別なのだ。
コンビニに赴こうと路上に出ると、路上にカラスが群れている。近づいてくる人間を見て、面倒くさそうな緩慢な動作で散った。歩道には生ゴミが散乱。出したゴミにちゃんとカラスよけネットをかけなかった者がいたのだろう。
煙草を買ってもどる途中、もう一度ゴミを見た。牛乳パックは知っているスーパーの特売品。惣菜はあまり買っていないらしく、野菜の切れ端が多い。さといもや大根の皮は均一の幅を保っていて、しかも薄くシャープ。個人情報に関するものは慎重にシュレダにかけられているし、ただの主婦ではないようだ。数羽のカラスが未練がましく遠巻きにこちらを見ている。
集積所のほうきを持ちだした俺は、ときどきカラスの方に振りむけて威嚇をまじえながら、散乱したゴミを寄せ集めるふりをしつつ、さらなる吟味をつづけた。特定のスーパーのレシートが多い。和食中心。さといもの皮にまじって、生姜の皮もかなりある。チューブではなく、毎回おろして使っているのだ。自身が生姜フリークなので、これだけの生姜を何に使うのか興味と親近感を覚えたが、生ゴミだけでは推理にも限界がある。缶、ビン類の「資源ゴミ」があれば判断材料も増えるし、スーパーのトレー類の宝庫である「燃えないゴミ」があれば精度はさらに高くなるはずだが、それは高望みというものだ。気を取り直し、そこにあるものを再構築してみる。見落とした物があるはずだし、何より見たつもりで見ていない物があるはずなのだ。
ラップについたラベル類を路上に並べると、その行間からこの主婦のひとつの意思が見えてきた。値段の高い魚介類は「半額」とか「30%引」で買っていることが多い。いい食材を徹底して割引で買う。そして、ああ、これは! 俺は茶色の卵のカラをつまみあげた。燦然と輝く真紅の「光」シール! 本邦エッグファン垂涎のヨード卵「光」さま。
じつは、わが家も分不相応ながら「光」さまカストマである。「光」さまと出会う前は、セール目玉の特売卵を買い込んでは冷蔵庫の中で大量に余らせ、けっきょく消費期限が1週間もすぎたころに、いちどきに5個も6個も使ってまずい卵焼きやスクランブルエッグになる。当然、そんなものは食いきれない。で、捨てることになるわけだが、女人というものはここで巧みな責任転嫁を行っていることに自分では気づいていないようだ。たいていこういうとき、女人は「あらら〜、こんなに残しちゃってぇ」と舌打ちしながら捨てる。まるで食べなかった者のせいで、自分はこんなふうに食べ物を粗末にすることは反対なんだけれどもと思いつつ、ときには「昔は卵は高級品だったんだから。特別な日じゃないと食べられなかったのよ」と、まるで自分が見てきたかのように戦前戦後の話をしたりする。そもそも特売卵を大量に買いこんできたあとの在庫管理の失敗に原因があることを内省することはなく、この愚行は延々と繰り返され、「昔は卵は高級品」で「特別な日しか食べられない」ということになるのである。
「かといって、今でも毎日タマゴ食うか?」
せいぜい1週間に1度か2度。個数にしても1、2個。俺は電卓を持ちだして、パチパチと数字をはじきだした。残りの人生で俺が一生に食う卵の数は、せいぜい200パックぐらいだった。なんだかさびしい数字だった。
俺は急にいろいろなものが気になりだして、電卓で次々と余生で食べる物たちの数を割りだしていった。どれもせつない数字ばかりだった。こんなにも人生は短かくはかないのかと思うと、突如、一食一食を噛みしめて味わわなければいかんという気になってきて、ワイフと娘を前にこう宣言した。
「つまり、すべての食材は昔の卵のように高級品でなければならない」
ということで、特売卵ばかり買っていたわが家は、翌日から燦然と「光」のカストマとなったのである。もちろん1パック350円(しかも10個入りではなく6個入りのパックである)の卵を買うのは、ものすごく緊張した。
が、冷蔵庫の玉子ボックスにおさまった「光」さまはじつに堂々としていて、扉の閉め忘れ防止警報ブザーが鳴るまで見とれたものだ。そして、これまで至極ゾンザイにつくられていた目玉焼きにも、ガゼン緊張感が漂いはじめたのである。
「光」さま初日の朝、今までの慣習でひとり2個ずつの目玉焼きをつくったワイフは、いきなり痛罵を浴びる。
「おめー何考えてんだ! ヒカリさまたぁ、ひとり一個ずつに決まってッだろ馬鹿野郎」
めったに声を荒げない男の激しい語気に、ワイフもひるんだのか、「ご、ごめん。つい。」
「待った。ひとり一個もオソレおおい。次からみんなで一個。」
「そ、そうね。」
割るのを失敗して、ひしゃげたヨード卵の目玉焼きになったときも、激しい非難がわき起こった。「目玉焼きを失敗して怒鳴られた」とワイフは今でもネに持っているが、それからしばらくは卵を割るワイフの手が震えるようになった。卵を焼いているあいだは、卵を焼くことにすべての神経を注ぎ込むようになった。こうなると、俄然、美味い目玉焼きになる。ワイフの目玉焼きの腕はみるみる上がり、家族も目玉焼きを心待ちにするようになり、ワイフは目玉焼きを焼くたびに家族の惜しみない賛辞を一身に浴びるようなり、こうなるとワイフだって気分がいいし、みんなも抜群に美味い目玉焼きを食って大往生大団円、卵を囲む家族の顔は笑顔で満ちあふれ、卵料理のプレミアム化は円満な家族を再生させることにも成功したのである。
この伝統は、家事をワイフから引き継いだあとに、さらなる拡大発展をとげ、1枚500円の沼津産・根付きアジの開き、1本1000円の創味ダシ醤油、700円の馬路村柚子の里ポン酢等が加わるに至った。
「ヤスさん、これ」
路上に並べられたラベルのひとつを俺は指先でつまみあげた。
「これぁ・・」
俺の中の剛腕刑事安二郎ことヤスさんは絶望的に目を閉じ、くびを振った。ある段階から、その事実をうすうす感じつつはあった。そこには冷酷にもナメタガレイのラベル、「半額引き」シールが上からかさね貼りされたラベルがあった。
一昨日、愉快そうにナメタガレイの話をしたのはヤスさんだった。子持ちカレイってやつはタマゴが美味いときは、身の方はぱさついて食べられやしねえが、ナメタガレイってやつは、どちらもイケる。
「パーフェクト。」
そう、そのときヤスさんは「パーフェクト」とナメタガレイのことを言ったのだ。俺は半額のシールをゆっくりとはがした。下から現れた日付は、ヤスさんがナメタガレイの話をしたときとぴたりと一致した。
「なあ、うちのかみさんにはこのこと黙っといてくれないか。寝すごした俺のせいだ」とヤスさんは笑った。気の抜けたビールみたいな笑い方だった。こうして俺の中のヤスさんは刑事を引退し、ただの安二郎さんになった。
ひととおり片づけをして、ネットをかけなおしても、カラスはまだ電線の上でこちらを窺っていた。俺は右手で拳銃の形をつくり、銃口を上にむけ、バンバンと2発打った。カラスは小首をかしげ、くわと言った。
2005/04/13
ブルベリの小さな奇跡
先日、マ・ビグダディは十数年ぶりに昔の同僚Sさんと会った。
「あれ、Sさん。メガネは?」
Sさんは入省したころ、つまり20代の時点ですでに強度の近眼のため、ずっとメガネをかけていた。ひと時代が過ぎ、退職したビグダディが最後に会ったときもそうだった。Sさんはちょっと照れ笑いをしながら、いやぁなにそれがね、と言った。
「家内が死んでから、暇やし退屈やし、毎日ブルーベリーをぽりぽりやっとったら、なんや治てしもうたんですわ」
Sさんが言うには、ついでに老眼まで治ってしまった。自動車免許も、書き替えのときに条件欄の「眼鏡等」の表記がなくなった。
さて、この話で僕が興味を持ったのは、ブルベリの効能について以外のところにある。ブルベリに限らず、メシマコブやウコン、アガリスクやら何やらとその手の話はあちこちの広告にあふれている。もちろん効能はあるのだろうが、聖人がもたらす奇跡みたいな体験談がならんでいると、なぜか嘘くさく感じる。おそらくいくつかは本当の話に違いない。しかし、本当の話でも、ある決まった定型内の文章として納まると、うさんくささが漂いはじめる。かえって思いきったつりく話の方が、文章的リアリテを出すのはたやすかったりする。本当の話を本当らしく書くのは、じつはけっこうたいへんなことだ。
さて、Sさんの話はビグダディからのまた聞きだったにもかかわらず、なぜか分からないがものすごいリアリテを感じてしまった僕は、目を閉じ、理由を考えた。みじかい話である。行き着くところは、ここしかない。
「家内が死んでから退屈だった」
ブルベリで目が奇跡的に治ることは、ただの単一の「事実」である。この点を強調しようとすればするほど事実のリアリテは逃げていく。ここで注目すべきは、「家内が死んでから退屈」という一見無関係な事実を組み合わせたことにある。この世の中で、「家内が死んだ」→「ブルーベリーを毎日食べる」という難易度の高い組み技を思いつく人間がいったい何人いるだろうか。まさにこの瞬間、「ブルーベリーで目が治った」というきわめてうさんくささ満点の商業的ディスクル(叙述)は、一片のポエムとなったのである。世俗的コマシャリズムと文学的ポエジとを截然と分かつ分水嶺の頂に、死んだ家内がちょこんと佇んでいる。
もしかしたらSさんの目に奇跡を起こしたのは、ブルベリではなく、死んだかみさんなのかもしれない、そんな淡いファンタジが、われわれの胸に小さな灯火(ともしび)をつぐのかもしれない。
2005/04/11
騎馬民族と高速道路二輪車ふたり乗り解禁
4月1日に35歳になった。いよいよ来たか、という感じである。
34歳は、なんとなく無理をすれば、まだ若い感もあるのだが、35歳は言い訳なし待ったなしの中年。
Oi、俺も中年だよ。まだクルマの免許も家も持ってないのに中年になってしまった。やはりクルマと家を持ってこそ「オトナ」である。持ってないからまだ青春なのだわなんて言ってたわけだけど、同世代がどんどんオトナになっていく中で、35歳にもなれば、ただのヘンな中年でしかない。
これはいかん。俺も一刻も早くオトナにならねばと思うのだが、この1年で増えたのは原付オートバイ一台と自転車一台。
Oi! 家どころかクルマどころか、加速度的に事態は悪くなっている。早く家持ち、クルマ持ちにになり、いっぱしのオトナにならなければと思うものの、原付オートバイと自転車で散財、借財。
このままじゃいけんのですわ。ほんとに。
ということで、いっぱしにクルマと家を手に入れるためにはいったい何をせねばならないのかと考えてみるに、まず、同世代の男たちは、皆もって「金がない」と言う。これはたいへん不思議なことで、ボヘミアンとして生まれてより各地を転々とし赤貧、その後も浪費につぐ浪費で子どもの給食代にも事欠くスリリングな毎日にあっては、金がないというのはあまりに当たり前すぎて、口にすることもないからである。
世事に明るい細君によれば、それはけっして収入がないという意味ではなく、ひとえにオトナとして家とクルマを得たゆえに、かなり長期にわたってキャッシめぐりが悪化していることに起因するということであった。なるほど一理あるが、家とかクルマと違って、自転車とか原付オートバイに散財した場合は、それがために無一物になっても「金がない」という権利が与えられないのは何ゆえか。「金がない」という言葉は、まこと厳粛に家とクルマを持つオトナだけに許される特権のようである。
んんむ、困りました。
というのも、わが一家は生来、ボヘミアンの血統に生まれつき、生涯を流浪遍歴の風に身をまかせ、「移動しつづける」ことによってのみ、おのが位置を見いだすことのできる系譜だからである。これと反することを行なうことは、細君の言葉を借りれば「星まわりが悪い」といって忌諱される。余談だが、この言葉の支配力の大きさは世人の想像を絶し、例えば「あの女はあんたにとって星まわりが悪い」と宣言されれば、即座に私は恐怖の奈落に突き落とされる。この「星ワルな女」「星ワルな行い」「星ワルな方角」など「星ワルなもの」は災厄凶禍と同義なのであり、これと同じ意味で定住と蓄財は騎馬民族にとっての最大の星ワルなのである。渋滞ばかりで動かないクルマはもはや不動産であり、家はべら高の土地資産価値において蓄財と同じ、つまり超星ワル。
んんむ。困りました。
というわけで、35歳の生誕日をきっかけに、南房総館山の海辺の温泉に赴き、遊行三昧、湯につかりつつ打開策はないかと思索を行なってきた。奇しくも、同日は日本においてはじめて高速道路における二輪車二人乗りが解禁された日であり、数組のタンデムライダーにも遭遇し、さわやかな風を感じたものである。
二人乗り不可のオートバイを3機、同じく一人乗りの自転車2機が全財産の俺は、長年のライダーでありながら、はたまた、おのが生誕日でありながら、この恩恵とは無関係。まさに騎馬民族の男気。馬は遊牧民の命。細君に言わせると、「星まわりは抜群」だそうである。
けっきょく、クルマと家に関するオトナの思索は「騎馬民族の男気」によって一蹴され、さらには1泊2日の物見遊山でしっかり散財してきて無一物。これもまた、星まわりはいいそうである。細君によれば。
2005/04/04
最大のレヂャー「アレ」
わが家の最大かつ最高ランクのレヂャーといえば、まちがいなく「アレ」に行くことである。
「アレ」と言ったのは、その名を呼ぶことさえもが、わが家にとってはあまりにオソレ多いからであって、みだりにその名を使用すると何だかバチが当たりそうな気がするほどオソレ多いのである。
今日は娘の小学校1年の最後の日、終業式。娘は1年間を通して皆勤賞を獲得した。思えば、両親そろってインフルエンザになった中をひとりたくましくサバイブし、日曜日の夜になるたびに翌日からの学校を案じて暗くなっているところを「学校なんてやめちゃって、いっしょに汽車で物見遊山なんて、どうスカ?」とささやく父の誘惑を振り払っての皆勤賞である。
史上最年少登校拒否記録も悪くないし、という父の思惑をよそに、娘はクラスでただ一人のリアル皆勤賞受賞者になったのだから、世の中不思議なものである。(リアル皆勤賞とは、インフルエンザによる繰り上げ合格を除外した、マゴウカタナキ皆勤賞のことである。じつは一般に皆勤賞と呼ばれているものにはインフルエンザによる欠席は認められている。おそらく皆勤賞狙いの善良なる少年少女らがインフルエンザに罹患した場合、皆勤賞ほしさのためにこれを隠匿して無理に登校し、被害が拡大するのを防ぐ学校側の配慮によるものと推測する)
さて、そんなわけで娘の皆勤賞を祝うことになった。小学校の正門前に集合した、父と母と娘。これから3人の家族はアレに行くことになる。しかもタクシーで。なんたるゴージャス。娘はまだアレに行くことを知らない。知ったらたいへんだ。もう何も手につかなくなってしまう。何といってもわが家の最大のレヂャーなのだ。僕はタクシーの運転手さんに、おごそかに宣言した。
「健康センターに、おもむいていただきたいのですが」
その瞬間の娘と細君の狂喜。まるで1億円宝くじ当たり券を前後賞といっしょに拾ったかのように、あんあーんアンビリバボ! アレよ、アレ!といった感じで言葉もでてこぬ様相。
じつは以前は1ケ月に一回ぐらいは、何かと娘へのご褒美と称して健康センターに行くことはあった。しかし、だんだん娘が成長してくると、男湯内をすっぽんぽんではしゃぐ姿が妙に場の中で浮いてしまうようになったこともあって、しぜんと足が遠のいていった。そして、いつしかわが家でオソレ多いレヂャーになってきたのだ。
皆勤賞の今日ぐらいは、と思ったとき、おそらくこれは娘と健康センターで男風呂に入る人生最後の機会ではないかという考えがふと頭をよぎった。黄色い通学帽子、ランドセルにつけた黄色いカバーも今日が最後。そう思うと、なんだかせつなくなってしまい、露天の薬草湯の中にもぐって泣いた俺は、じつに男親なのであった。うん。
2005/03/24
春のどけき日、遠きより友きたる
高校1年生のときの友人から、およそ18年ぶりに電話がかかってきた。卒業以来、一度も会わなかったから、氷河に閉じこめられたマンモスみたいに、昔のままの会話だった。でもお互いに年齢はきれいに2倍になっている。
この友人「おおいくん」は社会人になってからは、ずっと名古屋に住んでいるという。近く広島に転勤になるそうだ。週末、東京に出張のついでにこちらまで足をのばしてみると言っていた。
こちらは高校生のときに千葉松戸に引っ越して以来、ずっと変わらず住みつづけているから、ほんとうの氷づけマンモスは僕の方かもしれない。
春のどけき日、遠きより友来たりて、酒ヲ酌み交わす。
きわめて古典的なたたずまいのおおいくんだから、こんな言いまわしがぴったりくる。おおいくんとの記憶をたぐりよせてみると、出てくるのはスペードのエースとか、ダイヤのキングとか、トランプの札だけである。おかしいと思って、もう一度丹念に思いだそうとしてみたが、やっぱりトランプだけ。
考えてみれば、おおいくんとはトランプばかりやっていた。それも徹底してトランプばかりやった。あらゆる学校行事をボイコットし、学年が変わってクラスが変わっても、受験シーズンが間近になっても、僕らはストイックなまでにトランプをやりつづけた。
「明日を語れないトランプ仲間・・めざめよ、若人」
当時、学年主任が編集発行していた学校新聞で問題としてクローズアップされたこともある。
「明日を語れない? ケッコーだ」
女の話、部活の話、受験の話をすることもなく、49枚のカードを配り、そして集めることをくりかえした。修道士みたいに僕らはただ黙々とトランプをやった。確かに明日を語った記憶は、ない。
おおいくんは今日の宵の口あたり、うちにやって来る。古い再会にふさわしい春の好日だが、トランプしかやらなかった僕とおおいくんは酒を飲みながらどんな話をするのだろうか。「ではさっそく」とか言って、トランプを出したりするのだろうか。
*
おおいくんは20年前と何も変わらず、やっぱりおおいくんだった。
おおいくんの目に映っていたのも、20年前と何ら変わらない僕の姿だったはずだ。おおいくんの目を通して、僕は20年前の、高校時代の自分を見た。
過剰な気合と強い思い込み、そして処理しきれぬ矛盾を抱えた17歳。
おおいくんとは2軒居酒屋をはしごして別れた。
娘はおおいくんがうちに泊まるものと思って楽しみにしていたので残念がった。でも、ストイックなおおいくんは、会う前にすでに近くのホテルにチェックインしてきていたのだった。
翌朝、娘が言った。
「おおいくんは、やっぱりウチが考えてたとおりのおおいくんだった」
うん、と言って僕は笑った。
2005/03/19
部屋にレーシングマシン
深夜2時11分。
いったいいつ終わるのかと思うと気の遠くなるような仕事に追われ、ふと気がつくとこんな時間だ。
ときおり表の通りを水音とともにクルマが通り過ぎていく。いつの間にか雨が降りだしたらしい。
もうずいぶんオートバイのツーリングにも行っていない。オートバイは実家の車庫に置いてあるので、こんなふうに長期間仕事に忙殺されていると、たまに見に行くさえもままならぬ。そのかわりというわけでもないのだが、部屋の中に7.5kgのレーシングマシンを置いて半年になる。レーシングマシンといっても、アパルトメントの2階の部屋に置けるのは、自転車だからである。
照明を落したダイニングキッチンのカウンターで、熱いカッフェーをすすりながら、ライトアップしたレーシングマシンを眺めていると、かさかさした気持ちが次第にまるくなっていく。なぜ男は美しいメカを前にすると心がざわめくのだろう。
カップを持ったまま、前や後ろと移動して自転車を眺めているうちに、無意識でレンチでサドルの角度を変えたり、ブレーキについた小さな汚れをウエスで拭いたりしている。ツールセットはいつでも取り出せるように自転車の横に置いてある。ひとつひとつそろえていったパークツールの工具。自転車工具の老舗ブランドのツールもまた、触っているだけで心が落ち着く。
夢想の世界に入るのに時間はかからなかった。いつか自分の家を建てるようなことがあったら、DKLGWという独自の間取りの家をつくろう。ダイニング、キッチン、リビング、ガレージ、ワークスペースぜんぶを兼ねたワンフロアー。便所、洗濯機、風呂なんかは戸外でもいい。居住空間がそのまま仕事場であり、そして2機のレーシングオートバイとレーシングサイクルが展示されている。なんという至福。どんなにしんどい仕事でも、そんな場所だったら楽しくやっていけそうな気がする。キャスターつきの工具スタンドをあっちにこっちに動かして、気のむいたマシンに手をいれてやる。ネジの頭についたタールを拭きとってやったり、スクリーンをはずしてカウルとのあいだにはさまった小さなカラマツの落葉を助け出してやったり、そんなたわいもない無駄をまいにちくり返すのだ。あとは、ツールボックスの上に灰皿が一個あれば、何も文句はない。
そうして、カッフェーに口をつけようとしたら、カップはすっかり冷えていた。さて、仕事にもどりますか。
2005/03/17
青春シャウト
長い橋を渡っていく原付オートバイ。2ストロークのかん高い排気音が真っ青な空高くのぼっていく。振り仰ぐと、いわし雲。全開全力で力走している排気音だが、速度が遅いのでなかなか橋を渡りきれずに、いつまでも尾をひいている。まるでそうすることによって世界が手に入ると信じこんでいるかのように一途に伏せた背中。風に引き裂かれそうにはためく、うすっぺらいジャンパーが、やっと橋の向こう岸に消えた。
2004年の秋のその午後、江戸川の橋のたもとの土手に自転車を止めて休んでいた僕は、憑き物が落ちたように、すうっと目を見開いた。
これぞ青春のシャウトだ。
15年前の自転車を引っぱりだし、あちこちを直したり新しいパーツを入れたりして乗りはじめてから半年。青春シャウトのはずだった自転車が、じつは乗れば乗るほど、じじ臭くなっていくことに気がつきはじめていた。気温、気圧、高度まで計測できるサイクルコンピューターとカラー液晶のGPSで武装され、自動車の新車が買えるほどの自転車になり、高度なアミノ酸管理を行ないつつ100km、200kmを平然と走る。
Oiそれって、めちゃめちゃ健康ブームのOYAJIアスリートじゃん。金をかけた欧米ブランドのチャリ、成金と笑われないようトレーニングマシンで鍛練、そこそこ走れるようになったらレースなんかで腕試し、気合が入って、またトレーニングとチャリ投資・・なんて、完全なるオッサン。
だから、あのかん高い原付バイクのエギゾーストノートは鋭く俺の胸に突き刺さったんだ。
「だからって、いきなり買っちゃったの?」
納車されたばかりの原付バイクを見て、妻が言った。赤と白のヤマハ。TZR50という2ストロークの心臓を持ったレーシングタイプのバイクで、20歳の僕がはじめて買ったのとほとんど同じものだ。
もちろん、後先考えずにやっちゃうのが青春シャウトだ。あのころだってそうだった。所持金五百円。免許もなかった。それでも、感化され、いきなり買ってきた。それが青春だった。俺の。
あきれるぐらい無謀だった。So! 青春とは無謀さ。TZR50という原付バイク。これぞ青春という無謀のシンボル、汗ばむ鬱屈のシャウトだ。
今や自転車はオトナ、オッサンの趣味だ。自転車チームにいくと、若者はみな小さくなっている。ママチャリに乗って「お前ら皆殺しにしてやるぜ」なんて気を吐く若衆を見たことがない。
4車線の幹線道路の追越車線を60キロで突っ走ってクルマを抜いたり、頭にきたクルマのケツに延々とへばりついて走ったりはしても、そんなことを青春のときにやったか? 自転車に乗った若者がクルマを追っかけて走るか?! それらは交通と社会を知ったオッサンのやることで、無謀なんじゃなくて、中年の暴走にすぎない。
シャウトな無謀とは何か?
おそらく、このTZR50が35歳になろうとしている俺に何かヒントを与えてくれそうな気がする。今度、あの長い橋を渡るのは、こっちの番だ。
2005/02/28
携帯電話なしの2週間
携帯電話をなくした。昨年からまったく同じシチュエーションで4度目である。あまりに恥ずかしいので「あくことなくくり返される携帯電話紛失の黄金パターン」については割愛させていただくが、退化するならまだしも、まったく変わることなく4度も同じことをくり返す自分がほとほと情けなくなったこともあり、戒めもこめて携帯電話なしの生活をはじめることにした。1週間が経過した。
当初は仕事やツアーなどのことを考えると致命的でさえあるように思われたが、1週間たって思うのは、人間はすぐ慣れる、ということである。あのピリリリという神経質な着信音から解放された静寂な日々。バッテリがなくなったとか、持つのを忘れたとか、そんないまいましさからも自由になり、これはこれでなかなかいいのではないかと思えるまでになった。
また、先週末に川越(埼玉県)までチャリツアーに行ってきたが、近場のツーリングなのに何かあっても自力で何とかするしかないと感じがして、すごく緊張したものだ。旅先で困らぬようパンク修理の練習もやった。自転車に乗りはじめて半年たってはじめてのことだ。
しかし連絡先などのデータのほとんどを携帯電話の中に入れてあったので、連絡先が分からなくて困ることもあるが、その一方で、何か生活がまっさらの白紙になったような奇妙なすがすがしさがあるのも事実だ。
このままずっと携帯電話を持たない生活というのも案外いいかもしれないし、プリペイド携帯とか、次々と新しい番号に変えていくとか、そんなのもありかもしれない。
2週間後、なくした携帯電話がでてきた。最後の方は、このまま一生出てこなくてもいいんじゃないかと思うようになっていた。愛おしき静寂の日々だった。
しかし携帯電話が復活してから2週間たっても、なお愛おしき静寂は保たれたままである。つまり誰もかけてこないのだ。
2週間のあいだ携帯電話なしの生活をすれば、案外、慣れてしまうことは分かった。と同時に、もうひとつ分かったのは、2週間というのは俺が社会からその存在を忘れられ去られるのにじゅうぶんな時間だという事実だった。
その音を忘れてから28日目、小さなボディを震わせ、ついに着信音が鳴った。俺はいささか緊張気味に電話にでた。
「ヤー、イッチャーン、ゲンキー? 今ドコー? オミセ、サイキン来テナイネー」
2005/03/10
きみのことは、ほんとうにすきです。
娘も7歳になったが、最近、ちょっとびっくりするような言い回しを使うことがある。先日も水槽のフィルターからとうとうと流れ出る水を見て、
「滝がずっと流れてるのに、どうして水がこぼれないの?」
「よく見て自分で考えなさい。マドカに頭よくなってほしいからね」
「 おしえてよー」
「マドカのことがだいじだから、おしえない」
ほんとは説明するのが面倒くさかった。ちょうどエビの死骸を水底からサルベージしているところで、ちょっと心が痛んでいたのだ。すると彼女はまくしたてるように言った。
「 マドカのことだいじならおしえてくれたっていいじゃない、いっぽんとられたでしょ」
*
次は昨日の話。小学校から帰ってきた娘が、ランドセルから小さな手紙をだした。
「ぽんおとーさん、こんなのがはいってた」
ぽんおとーさん、というのは、わが家庭内における僕の威厳ある呼称である。ちなみに細君は「ぽんおかーさん」、娘は「ぽんこやり」、あるいは「ぽんまー」である。「ぽん」は最上位の敬意を示す接頭語で、今のところ、市原家内において独占的に流通している。
娘が僕の目をのぞきこみながら差しだした小さな紙きれには、こう記されていた。

紙は男の子の手によるものらしく、無造作に折りたたまれた痕がついていた。動揺するぽんおとーさん。
な、なんなんだ、これは。
娘は、にったりと笑い、「うそ」
いっぽんとられた。
(2005/02/04)
支配人
スウィミングクラブのトイレにこんな貼り紙があった。
「管の上にはぜったいにのらないでください。支配人」
トイレで管の上にのぼって何をするのかは分からないが、プールは子どもも多いので、のぼっちゃう子もいたのだろう。管がはずれて噴水状態になったトイレから濡れネズミの子どもが、しゅん、として出てくる事件が後を絶たず、「ぜったいに」という言葉と、「支配人」という署名が入ったのかと想像してしまう。なかでも僕が気になったのは、支配人という言葉だ。
これがない場合はふつうの貼り紙だが、「支配人」という文字が入ると、とたんに威厳を帯びて見える。
「管の上では踊らないでください 支配人」
「管の上でスパゲッティを食べないでください 支配人」
笑っちゃうような文面でも、なんというか、説得力がでてくる。こんなのはどうだ?
「管の上でうんちしないでください 支配人」
「へんなもの流さないでください 支配人」
やはり威厳を保っている。
そもそもこの支配人という言葉はなんだろう? ホテル、スポーツクラブ以外で支配人という言葉はあまり使わないが、なんでホテルは「支配人」なんだろう?
「支配」という言葉はふだんの日常生活ではあまり使えないほどのパワーのある言葉である。支配人・・俺はこのホテルを支配しておる、おっほん。
「人」のかわりに「者」を使うともっとすごい。支配者。ホテル支配者。千葉県支配者。アジア支配者。管の上でヨーガしないでください 支配者。なんで「支配」なんだろう? 管理、とか、責任じゃだめなのか。
ホテルの支配人が名刺を差しだしながら言う。
「当ホテルの支配者です」
ホテルの支配人会合なんかはすごそうだ。あちこちで支配者らが談笑する。中には気のやさしい支配者だっているだろう。弱気の支配人。ヘルニアの支配人。サラリーマンの支配者。休日は家族サービスする支配者。
そういえば「支配人」が使われる場所では、きれいな女の人がたくさんいる環境が多い。僕の行っているスポーツクラブもしかり。彼女ら全員が支配者に支配されているのかと思うと、軽い羨望を禁じえない。
「きみきみ、私の役職を知ってるかね?」
「はあ、支配人です」
「支配人。うーん、いい響きだと思わないかね」
「はあ」
「支配人は、これより全知全能の神のもたらされた威厳高きこの「支配」の名のもとにおいて、きみに命ずる・・。お茶」
なんたる傲慢! なんたる羨望!
誰か、「支配人」の言葉の由来を知っている人がいたらおしえてください。
2005/01/27
世界史の参考書
最近、この世の中がよく分からなくなってきたので、思いたって高校生用の世界史の参考書を買った。シベリヤ流刑地に送られることになったら、持っていきたい一冊である。受験のときはおろそかになっていた現代史をちゃんと勉強しようと思っているが、そのためにはエイプマンの時代から順を追っていくのがサルとしての正攻法。今、オリエント時代。だいぶサルも偉そうになってきた。さて、現代まであと5000年。行き着くか?
2005/01/26
養命酒で晩酌
2005年になってまだ一度も飲みに行っていない。人生的な記録である。家でひとりで飲んだりもしないので断酒に近い。口さびしくなって、そうだ晩酌でもやってみようかと思っていたときに、新聞に養命酒の広告が出ていた。アルコール度数も日本酒なみだったので、なんとなく通販で買ってみた。届くと、酒のイメージと違って規定量を付属の計量カップで飲む。これじゃ晩酌というより、シロップの薬だ。そこでビンのまま、ラッパ飲みをしてみた。
「そういうのって、体によくないんじゃないの?」と家人。
別に冷え性を治したくて飲んでるわけじゃなく、酒を飲みたいだけだから、と言うと、
「それ、ぜったい間違ってる」
「君もどう?」
「遠慮しとく」
こうして日々、ひとり養命酒をラッパ飲みしている。
2005/01/23
(2004年のエセーは編集中です。近日アップ予定)
