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◆瀬戸内海を見おろす市原家のお墓
「すみません、千葉から来ました市原といいます。ヒロ子さんはいらっしゃいますか?」
初対面の人への挨拶としては少し変だが、お店のおばさんはまったく動じず、
「はあ。わたしがヒロ子です」
表情ひとつ変えず、根性がすわっている。つづけて、「なんや宇宙人が来たのかと思いましたわ」
ヒロ子さんは店の奥から何か出してきたかと思うと、ヤカンに水をくんで、
「せっかく来て墓参りせな、罰あたりますな」
と言って、わたしたちを手招きする。家は古い門長屋のつくりで、細い通路を抜けて裏に出られる。裏にはすぐに山の斜面がせまっていて、人の肩幅ほどの折れ曲がった石の階段をのぼっていく。
「あんたらオートバイばっか乗りよるけん、こげな階段えらいやろ。わたしゃ毎朝のぼりよるけん」
ヒロ子さんはじつに達者な足どりで急な階段をのぼっていく。わたしたちの方がじきに息切れしてきた。

「ここにも家があったんやけんどの、もうだんだん壊していきよるわ」
段々畑のように斜面の一部を切り開いて、確かに家らしきものの跡があった。そのもう少し上に、やはり斜面の途中の棚のように小さな敷地がお墓になっていた。瀬戸内の海からまっすぐに吹き上げる風が、汗ばんだ肌に涼しく心地いい。
ヒロ子さんはお墓のひとつひとつを説明しながら歩いていく。その中の二つ、新郎の曾祖父にあたる市原敬三さんのお墓に線香をともし手をあわせた。
◆市原の足跡をたどる100冊のジャポニカノート
母屋にもどったあと、ヒロ子さんは、
「今日はもう店しまお」
と、わたしたちを店とつづきの小さな小部屋、ちょうど列車でいえば車掌室のような部屋に通してくれた。靴のまま縁に腰掛けるようなつくりで、ヒロ子さんが店のあいまに簡単な食事をとったりする場所らしい。
机の上には漢和辞典や旧字辞典が平積みになっており、古文書のようなもの、それを翻訳しているらしいノート、それも小学生の学用品であるジャポニカノートがあった。
「これは敬三が外国から送ってきた手紙や。何と書いてあるか大方はわかったんやけんどの、なんぼ見てもわからんところがあるんやわ」
わたしが見ても、ほとんどミミズ文字でほとんど読めない。最後にかろうじて市原敬三の文字と、ニューカッスルと地名があるのが分かる程度。
市原敬三は、この島で300年屋号を守りつづけている市原本家、亀太郎の弟。10代のとき突如、単身で島を出て、イギリス船に潜り込み、そのままイギリスで造船を勉強して帰ってくるや、現在は横浜で記念館になっている戦艦三笠の改造設計をやったど偉い人で、そういえば確かに、ときの司令官、東郷平八郎から送られた大きな感謝状が市原家の家宝として無造作に現存している。
この派手な分家、敬三の血を守る唯一の切り札が新郎の父だったわけで、多少規格外の人間だったにせよ、男の子を二人残した点で責任は立派に果たしたのだ。
本家、亀太郎の血を継ぎ、屋号を守る者は、今はヒロ子さんだけになってしまった。ヒロ子さんは婿養子の旦那に先立たれたあとも、蔵つきの広い屋敷で一人、300年の市原の歴史をこつこつ読み解いてきたのだ。その足跡が山となって積みあげられた膨大な数のジャポニカノートとなって眼前にある。
「こんなことやっても、しゃあないんやけんどのう、まあ、年寄りの暇つぶしやわ」
そう言って、あっけらかんと笑うヒロ子さんを見ながら、わたしはなぜか男の子を大量に生まなければと猛然と決意するのであった。
このあと、蔵や母屋の中を見せてもらったりするうちに、はや時計は3時をまわっていた。本州にもどる最終に間にあわなくなるので、わたしたちは名残惜しさを感じつつ暇を告げた。
ヒロ子さんは、いちご大福やら飲み物やらお店のものを詰めあわせて、「もってけ」と言って手渡してくれた。
わたしたちは豊浦港までの道を飛ばしに飛ばし、かろうじて最終便に間にあった。
帰りの船は、行きより新型でかなり奇麗な船だったが、乗りあわせたおじさんが島でヒロ子さんのいる楠木集落のことを聞いた人だったので驚いた。
「目的のところには行けたか?」
「ええ、おかげ様で」
おじさんは、このあと笠岡港に着くまでの1時間、延々と戦争時代の戦闘機乗りだったころの思い出を語ってくれた。
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